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動画のテキスト版です。
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カント以前、哲学の世界では、
デカルトから始まる大陸合理論と、
フランシス・ベーコンから始まるイギリス経験論との間で
激しい論争が繰り広げられていました。
デカルトはこの世の全てを疑い切ることで、
【疑っているこの自分】だけは疑いようがないとの結論に至りました。
極端に言えば、理性だけが絶対に確実なものであるのだから、
それ以外は不確実である。
だから真理を追求するためには理性のみに頼らなくてはいけない。
そのように考えて【演繹法的に】真理を追求してきたのです。
一方、大陸合理論側は全く逆の思想を提示しました。
つまり、我々の理性は単に経験の蓄積に過ぎない。
経験だけが唯一確実なものなのだから、
理性を神聖視するのは間違っている。
そのように考えて【帰納法的に】真理を追求してきました。
理性、または認識と言い換えても良いですね。
これは確実なものなのか、不確実なものなのか。
さぁ、どっちなんだい!!
と議論を繰り返していたんです。
カントはここに対してこう言います。
「どっちでもないんじゃね?」
「そもそも問いの前提が間違ってるよね?」
それまでの哲学では、まず間違いなく正しい何かを設定することで
それをスタートにして理論を発展させてきたのですが、
カントはその大前提である『正しい認識』をひっくり返したのです。
みんなが求めているその大前提はいわゆる【モノ自体】で、
モノ自体と我々が認識できる現象とを同列に語ってしまうと、
二律背反が起こってしまうことから、
人間はモノ自体を認識できない。と説き
大前提から哲学を再構築したわけですね。
この転換を俗に【コペルニクス的転回】と呼んだりしますが、
わかりやすく図にするとこんな感じです。
まずカント以前の哲学では認識についてこのように考えられていました。
認識するための対象が先に存在しており、
それを『見る』ことによって理性が働いて認識に至ると。
このストロークの中で、大陸合理論とイギリス経験論で
議論が繰り広げられていたのです。
これを『認識が対象に従う』などと表現します。
しかし、カントはこれを180度ひっくり返します。
まず一番最初に行われているのは『見る』という行為だと。
この見るという行為は感性によって行われます。
そして、直観した情報を理性(悟性)が受け取って、
その結果、対象が認識される。
つまり、対象よりも先に認識が存在しているのです。
これを『対象が認識に従う』と表現します。
もう少し噛み砕いて解釈をすると、
例えばこの世の中がこんな感じでぐちゃぐちゃな状態だとします。
我々はこのぐちゃぐちゃな世界を世界だと認識しているのですが、
このぐちゃぐちゃをそのまま認識することはできません。
それはこのぐちゃぐちゃが【モノ自体】だからです。
我々はまず、このぐちゃぐちゃを直観的に見ます。
そして、我々に先天的に備わった認識方法を使って
空間的、時間的にその情報を整理します。
この生まれながらにして持っている生得観念のことを
【ア・プリオリ】と呼びます。
感性によって得た直観を自身の理性によって処理するのですが、
その際に【カテゴリー(純粋理性)】と呼ばれる生得観念に働きかけ
赤いだとか、果物だとか、甘いだとかの結果が返ってきて
それによって直観しているものがリンゴだと認識できるのです。
この認識のことを【観念】と呼んだりします。
このように、まずはじめにモノ自体があり、
それを直観し、理性を働かせて処理をすることで
はじめて対象が認識として現れる。
つまり、自分の認識がなければ対象は存在しない!
もっと言うと、対象は人間が作っている!なのです。
この考え方でいくと、どこまで行っても理性の膜を通る以上、
元々のモノ自体を認識することは不可能ですよね。
だからこそカントは、理性を通過した後のことのみを
論じようと言ったのです。
神や、魂はモノ自体に含まれる可能性があるモノだから、
理性で真理にたどり着くことは無理だよねと。
つまり、彼は神を否定したわけではなくて、
神についてはわからない。と考えたんですね。
ここ、意外と重要なので覚えておいてください。
カントから始まるこのような考え方をベースにした思想を
【ドイツ観念論】と呼びます。
聞いていただいて分かる通り、
主張はわからないことはないけど、
ちょっと人間の頭では理解しづらい非常に難解な思想です。
カントに続くフィヒテなどの思想は、
カントをさらに難解にしたようなものですので、
解説が可能なのか、今から不安でしょうがないです。
それは良いとして、
カントはこのように人間が物事を認識する仕組みを解き明かし、
理性の限界をはっきりと示しました。
これだけでも哲学史においての功績は非常に大きなものなのですが、
カントが吟味した理性にはもう一つの側面があります。
今回解説した、認識する力を持つ理性を【理論理性】と呼びます。
カントは理性を二つに分けて吟味したのですが、
もう一つの理性である【実践理性】については
次回の動画で解説しようと思います。
実は実践理性の思想は、今でも我々に大きく影響している
ある組織に引き継がれています。
ぜひ次回の動画もご視聴ください!
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#カント
#アプリオリ
#理論理性
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